幼い考え事(究極の道徳について)

まだ幼かったころ、私は注意力散漫でよく考え事をしていた。その一つが究極の正しさについてだった。
私は小学生にして「暴力は暴力を呼ぶから仕返しはやめなさい」、「暴力で解決するな」という学校で習う道徳とは対極に位置する正義の味方、ア○パンマ○に疑問を覚えるこざかしいのだか純粋なのだかよくわからない扱いにくい子供だった。
自分が正しいと思うことをして生きていこうと心に誓っていた。同時に、いったい何が本当に正しいのかという考察にも時間を割いていた。

人は言う。「自分がされたらうれしいと思うことを人にしろ」と。
しかし、私は自分がされたらうれしいと思うようなことを人にしてあげるとむしろ嫌がられる側の人間だったので、本当にこれでいいのか?と思っていた。
他にもいろいろと、一般論としての道徳に疑問を覚えることは多かった。


中学生になり、不思議なことに人により正義とは違うものなのだということをはっきりと認識した。うすうすわかっていたのだが、私は混乱した。私の正義は他人の正義をふみにじることかもしれないからだ。

 

では、究極の正しさとは、道徳とは、絶対的な正しさは存在しないのか?と思った。
存在しない、と結論が出た。むしろ、正しさや道徳、ルールとは、それぞれの好き嫌いや特性が違う人間たちをうまくまとめるため、ある時は為政者の都合によって、ある時は最大公約数的なまとめ方でもって、誰かが恣意的に作りあげたものなのだと思うようになった。本当に月並みな結論になってしまったが、中学生段階で出た結論なので許してほしい。

他にも考えたことがある。

命を大切にしろというのは、徹底すればハチミツと果実しか食べないことだと思っていた。植物も動物も生きているからだ。でも動物も、一部の植物も、他の生き物を殺して食べて栄養にして生きている。テレビでライオンがシマウマを狩るのを見ていると、「かわいそう」というよりもこの世の理ということを強く感じた。道徳とは別の価値基準体系がそこにはあった、というより、生きているという以外に何も価値などないのではないかと感じさせる瞬間がそこにあった。生きているというただその事実だけが、道徳などというチャチな価値観を吹き飛ばしてくれるような気がした。私は、光合成によって栄養をほぼ自力で生み出せる独立栄養生物である植物は最も道徳的な存在ではないかと今でも思っている。あくまで私の道徳基準でだけれども。