若さの血しぶき

若いと人は傷つけあう。

決して故意ではなく、己の未熟さゆえに他人を傷つけ、自分を傷つける。

そんな普通の日常を、君は戦場のように恐れてる。

今日もどこかで君は血の涙を流す。

大げさだよって笑い飛ばすのがやさしさなのか、

真面目に慰めてあげるのがやさしさなのか。

 

それは仕方のないことなのだけれど、時にとても優しいあなたは、自分に罰を与えずにはいられない。他人を傷つけた分だけ、故意に自分を傷つけようとする。

それが僕には耐えられない。

何より大切な君が、傷ついてしまうことが、僕には何よりつらいんだ。

僕の尊敬する優しい君は、その優しさゆえに人を傷つけることに傷ついてしまう。

その分自分を傷つけることで気持ちが収まるのだと君は言う。

そうやって自分を傷つけることに僕は傷ついてしまうのだ。

でも君が言うようにそうすることで君の気持ちが収まるのなら、

そうしないことがどうしようもなくつらいのなら、僕にはそれを止める権利なんてない。

何もかもがつらいんだ。

ただ君に自分を傷つけないでほしい。

この気持ちは勝手だろうか。勝手だよな。

君は笑うよな、こんなに真剣に考えるぼくが滑稽だって。

君はそんなにやさしいのに、いつだって僕にだけは冷たくて残酷だ。

大好きだ、大好きだ、君が大好きだ。

でも、もうつらいんだ。諦めたいんだ。君を愛することも、何もかも。

僕が離れそうになると、君は必死に止めるよね。

でももう僕にはどうしようもできないんだ。君に怒りすらわいてくるよ。

でも僕だって、君を傷つけたくはないんだ。
君はわからないって言うけど、僕は君が大好きだから、大好きなままでいたいから別れるんだ。最後くらい僕に美しい思い出をください。

 

未熟な僕の愛情では、君を包み切れなかった。

弱い僕には何もできなかった。

「ごめんね。許して、許して、許して、おねがい。」

君の最後の言葉がずっと耳にこびりついて離れないんだ。それは、僕がずっと持っていた言葉なのに。

とても優しい青年

僕は話さない。

それにはいろんな理由があるんだ。

人は僕を罵る。

根性なし、無責任、弱虫、臆病者、何を考えているのかわからない。
なら、一緒にいなきゃいいじゃないか。
僕が一度でも頼んだことがあったかい。

その場で止まって考えて、答えが出なければ保留する。

ただそれだけのことじゃないか。

 

考えてみればおかしな話だ。

自分の気持ちを自分のうちにとどめておく、ただそれだけのことがそんなに責められるような話だろうか。

むしろほめてほしいくらいだ。

僕は人を傷つけたくないんだ。自分も、他人も、人間を傷つけたくはないんだ。

彼女はとても正しい人だ。
ふつうは正しくて言わなきゃいけないことだって、その人には必要がないときもある。
彼女はやみくもに正しさを主張する。私は正しいじゃない、どうして、どうしてと。
その正しさが人を傷つける。その正しさが唯一の決定的な君の間違いなんだよ。

 

幼い考え事(究極の道徳について)

まだ幼かったころ、私は注意力散漫でよく考え事をしていた。その一つが究極の正しさについてだった。
私は小学生にして「暴力は暴力を呼ぶから仕返しはやめなさい」、「暴力で解決するな」という学校で習う道徳とは対極に位置する正義の味方、ア○パンマ○に疑問を覚えるこざかしいのだか純粋なのだかよくわからない扱いにくい子供だった。
自分が正しいと思うことをして生きていこうと心に誓っていた。同時に、いったい何が本当に正しいのかという考察にも時間を割いていた。

人は言う。「自分がされたらうれしいと思うことを人にしろ」と。
しかし、私は自分がされたらうれしいと思うようなことを人にしてあげるとむしろ嫌がられる側の人間だったので、本当にこれでいいのか?と思っていた。
他にもいろいろと、一般論としての道徳に疑問を覚えることは多かった。


中学生になり、不思議なことに人により正義とは違うものなのだということをはっきりと認識した。うすうすわかっていたのだが、私は混乱した。私の正義は他人の正義をふみにじることかもしれないからだ。

 

では、究極の正しさとは、道徳とは、絶対的な正しさは存在しないのか?と思った。
存在しない、と結論が出た。むしろ、正しさや道徳、ルールとは、それぞれの好き嫌いや特性が違う人間たちをうまくまとめるため、ある時は為政者の都合によって、ある時は最大公約数的なまとめ方でもって、誰かが恣意的に作りあげたものなのだと思うようになった。本当に月並みな結論になってしまったが、中学生段階で出た結論なので許してほしい。

他にも考えたことがある。

命を大切にしろというのは、徹底すればハチミツと果実しか食べないことだと思っていた。植物も動物も生きているからだ。でも動物も、一部の植物も、他の生き物を殺して食べて栄養にして生きている。テレビでライオンがシマウマを狩るのを見ていると、「かわいそう」というよりもこの世の理ということを強く感じた。道徳とは別の価値基準体系がそこにはあった、というより、生きているという以外に何も価値などないのではないかと感じさせる瞬間がそこにあった。生きているというただその事実だけが、道徳などというチャチな価値観を吹き飛ばしてくれるような気がした。私は、光合成によって栄養をほぼ自力で生み出せる独立栄養生物である植物は最も道徳的な存在ではないかと今でも思っている。あくまで私の道徳基準でだけれども。

愛とは何ぞや

人間が財やサービスとして流通し続ける世界に疲れた。
殴って殴られてが永遠に続く社会に疲れた。

弱音を吐いてもわかってくれる人などいない。

皆周りはキチガイか自分をモノとして見ているだけの、その時々の都合で敵にも味方にも変わるものだと知っているから誰も本音なんて言えない。


私をモノとして見ている、対価にセックスがほしいだけ、私の見た目に理想を投影しているだけの男に、一時的な鎮痛剤としてすがりたくなる。

でも誰も私を見ていない。目で見えているだけのものに都合のいい何かを反射しているだけ。透明人間になったようで、でもただそれだけのことなのに何故か死にたくなる。
それがわかっていてすがりたくなるのは、みじめだ。

のどが渇くのに周りには海水しかないのと似ている。

これ以上のどが乾かないように、汗をかかないように、なるべく人にふれずに生きていく。そんなことをほとんどみんなが幼いころから繰り返す。

 

自分も他人も愛していない。見返りがなきゃ、条件がなきゃ、好きになれない。
でも誰も愛していないなら、その見返りは、条件は、いったい誰の利益なの。

女子供の「視点を取り入れる」ことについて。

子供の斬新で型にとらわれない視点を取り入れる、という趣旨のアイデアコンテストは多くある。子供といっていいかわからないが、まだ養われている側の人間も多い中高、大学生向けのビジネスアイデアコンテストなども含もう。

また、女性の活躍という文脈で、企業に女性にしかない視点を取り入れよう、というスローガン?のようなものもよく見る。

言っている通りに、子供の先入観のなさや、女性として生活してきた中で培われてきた視点や、女性性に依存した視点を取り入れるという目的もあると思う。
しかし、私が「子供のアイデアを取り入れる」方の大会に参加した経験からして、女性や子供の視点を取り入れる、ということにはある一つの共通点があるように思う。

それは、「養われている、あるいは今後自分で食えなくなっても養われることができる」という立場からの意見を求めているのではないか、という点だ。これはネットのどこかで男性が女性に、「会社で下手打ってもお前には(現在、未来問わず夫に養われるという)保険があるものな」というようなことを言うことがある、ということを知ってから考え出したことだ。
バイトくらいしかやったことのない私だが、会社に入って、自分で会社を経営する見込みや、転職してまた別の仕事につける見込みが確実にあるわけではない人にとって、
正しいと分かっている意見でも、自分の社内での立場を悪くするようなことはそうそうできないというのはわかる。特に、自分だけでなく、家族を養うような立場の人にとってはもうすごい重圧だろうという想像もつく。
そういった人たちの意見を代弁してもらう、という点もこのようなコンテストの趣旨にはあるのではなかろうか。もちろん子供たちに彼らの意見を直接言ってもらって、ということではないが、「責任がそこまで重くない者、外部の自由な者」という点も大きな趣旨なのではないだろうか。

私も何度かこのようなコンテストに駆り出されたことがあるが、普段批判されがちな私の生意気さだったり、人に気を遣わず思ったことをそのまま口に出してしまう性質が、「クリエイティブ」で「子供らしい、斬新な」アイデアだとほめられて、たいへん嬉しかった覚えがある。
私の生意気さこそが、彼らに貢献しやすい性質だったのではないか、と今も思う。
でももうすぐ社会に出る私は、きっとこの性質を近いうち失うことが望ましいのだろう。